円成寺
- 隠れ里に現われる、浄土式庭園
- 如来が来迎する、美しき祈りの空間
- 若き運慶の才気がほとばしる、国宝・大日如来坐像
如来像は、悟りを開いた釈尊の姿がモデルです。王子の身分を捨て、城を出たときの釈尊は衲衣(のうえ)という粗末な衣一枚を身に着けただけで六年間の苦行を行いました。そのため基本的に如来は装飾品を身に着けない姿で表されますが、大日如来はすべての仏を統一する絶対的な存在であることから、王に見立て、宝冠をしています。
玉眼か、彫眼かによって、造像時期の手がかりとすることができます。玉眼とは目の質感を出すために水晶を使った眼のことで、おもに鎌倉時代以降に用いられました。円成寺の大日如来坐像は、玉眼の最も早い時期の作例です。運慶は、父親の弟子である快慶とともに、鎌倉時代に入ると次々に玉眼を活用した仏像を造りはじめます。
如来の額にある白毫(びゃくごう)の光と全身から発する光明とを様式化して表わしたものが光背です。台座と同じように如来の身体の一部として表現されるものといえるでしょう。さまざまな形式の中で、円成寺の大日如来坐像は二重円光と呼ばれる形式をとり、2つの円がそれぞれ白毫からの光、身体からの光を表現していると考えられています。
仏の法力を手指の形で表わしたものが印相です。密教の大日如来を中心とした曼荼羅には金剛界と胎蔵界があり、印相が異なっています。金剛界の大日如来である円成寺の大日如来が結ぶ印相は、左手の人差し指を立て、右手でその指をにぎる智拳印。仏の智慧への考察を深め、煩悩を滅し、悟りの境地に入る瞬間を象徴しています。
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「後白河法皇が仏工運慶に仰せて金剛界の大日如来を造らしめ、当山に安置し、或は仏舎利に多宝の金塔を寄附せさせましまける」、円成寺『寺縁起』の一文です。
相應殿(そうおうでん)の大日如来坐像は、台座に記された墨書銘(ぼくしょめい)から、天才仏師・運慶が20歳代で、造像したことが推定されています。その表現には平安後期の主流であった定朝様に学んだ形跡が散見されるものの、若々しく張りのある面相や生気に満ちた肉身が、傑出した才能の登場を告げています。鎌倉時代の勇ましく、活き活きとした空気を背景にやがて“写実の時代”と呼ばれる彫刻表現を牽引する運慶。現存作品の中では最初期のものであり、実質的なデビュー作といえる、端正で美しい大日如来坐像です。 -
運慶は、後に東大寺南大門の仁王像を制作したとき、完成した像に対し、顔の向きと肩の肉付きの大掛かりな調整を行なったことが現代の調査で判明しています。一度完成した像でも、気に入らなければ納得いくまで改良する。運慶の彫刻表現の根本には、細部までの徹底したこだわりがあるといえるでしょう。
例えば、像の側面から上体を見るとわずかな反りがあることがわかりますが、実はその絶妙なバランスこそが全体の颯爽とした緊張感を造り上げています。納得のいくまで時間をかけ、取り組んだ意欲作だからこそ、円成寺の大日如来坐像は、新たな表現世界の到来を人々により強く予感させるのかもしれません。 -
2017年12月から、大日如来坐像が安置されているお堂が、これまでの多宝塔から相應殿に変わりました。これにより、従来よりも間近にお参りができるようになり、さらに正面だけではなく両側面からの姿もご覧いただけるようになりました。大日如来坐像の上体を反らすことで颯爽とした新時代の姿を造り上げた運慶の技をぜひ、じっくりとお確かめください。大日如来坐像を取り巻くように配置された四天王立像は東京藝術大学による復刻で、現代の優れた技も併せてご覧いただけます。
また、現在多宝塔には大日如来坐像の模刻「平成の大日如来坐像」が安置されています。