隠れ里に現われる、浄土式庭園 隠れ里に現われる、浄土式庭園

  • 全国でも稀少な平安時代の浄土式庭園 楼門からの菊池 全国でも稀少な平安時代の浄土式庭園 楼門からの菊池

     仁平3年(1153)のある日、東大寺別当など要職を歴任した仁和寺大僧正・寛遍(かんぺん)は、円成寺の阿弥陀如来の夢を見ました。この霊夢を縁として円成寺に移り住んだ寛遍が、飢餓や戦の無い世への祈りを込めて、浄土式庭園を築造したと考えられています。
     浄土式庭園とは、平安時代後期に隆盛した浄土信仰から生まれ、浄土の光景を苑池として造りあげたもの。平等院鳳凰堂の例に見られるように阿弥陀堂と池泉を中心とする庭園を有し、王朝文化の優雅さが反映されています。円成寺庭園もその印象は、山里にありながらまさに、雅。森閑とした環境が現世の理想郷を際立たせています。

  • 県道が庭園を横切っていた荒廃からの再生 県道が庭園を横切っていた荒廃からの再生

     円成寺の創建は諸説あり、奈良時代とも平安時代ともいわれています。江戸時代には山内23寺を持つ一大霊場にまで発展しましたが、幕末の動乱、維新期の神仏分離以降は衰退し、庭園も荒廃。明治期には伽藍と池泉の間に県道が通る惨状でした。
     ようやく伽藍の修理がはじまったのが、明治15 年(1882)。膨大な手間と時間を要する復興作業は、代々の和尚に引き継がれます。昭和36年(1961)には、悲願だった県道の移設整備が実現。昭和51年(1976)には、百年以上もの試練の時期を乗り越えて、すべての整備が完了、平安の庭は、かつての景観を再生させたのです。

  • 失われた橋にいにしえ人の想いを偲んで 失われた橋にいにしえ人の想いを偲んで

     円成寺に伝わる江戸期の絵図『和州忍辱山円成寺伽藍封疆之図(わしゅうにんにくせんえんじょうじがらんほうきょうのず)』では、池泉中央の中島には南北それぞれの岸に、現在では失われてしまった朱塗りの橋が架けられています。池泉手前の此岸から、中島を経由して彼岸へ。そして、楼門、阿弥陀堂へと続くその参道をいにしえ人たちは、憧れの浄土を歩く心持ちで歩みを進めたのでしょうか。池泉のほとりではぜひ、在りし日の人々の気持ちに想いを馳せてみてください。

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