円成寺
- 隠れ里に現れる、浄土式庭園
- 如来が来迎する、美しき祈りの空間
- 若き運慶の才気がほとばしる、国宝・大日如来坐像
檜皮葺(ひわだぶき)の楼門は、応仁2年(1468)の再建。浄土式庭園の光景に厳かな風格を与える落ち着いた佇まいが印象的です。現在、ここから出入りはできませんが、近くで見る細部は花肘木(はなひじき)など意匠が凝らされ見応えがあります。正面の浮彫の中央にある月輪(がちりん)には阿弥陀如来を表わす梵字が刻まれています。
池泉のほぼ中心に中島が1つ配され、その他にも中島がもう1つと岩島が4つほどあり、この島々の大小で浄土世界を巨視的、微視的に演出していると考える説もあります。浄土式庭園であるとともに、寝殿造系の庭園配置を備えた舟遊式庭園でもあり、池の片側に島が寄せられたのは舟遊のため水面を広くとる工夫だったのかもしれません。
別世界が開けるように現われる、長く東西に広がる水面。梵字(ぼんじ)を模したと伝わるその形から梵字池とも呼ばれています。池泉(ちせん)の手前側から対岸の方向を望むと、池のほぼ中央にある中島と石段の上にある楼門が一直線に並んでいるのがわかります。さらに、その延長線上に、本尊・阿弥陀如来坐像が座す本堂・阿弥陀堂があります。
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仁平3年(1153)のある日、東大寺別当など要職を歴任した仁和寺大僧正・寛遍(かんぺん)は、円成寺の阿弥陀如来の夢を見ました。この霊夢を縁として円成寺に移り住んだ寛遍が、飢餓や戦の無い世への祈りを込めて、浄土式庭園を築造したと考えられています。
浄土式庭園とは、平安時代後期に隆盛した浄土信仰から生まれ、浄土の光景を苑池として造りあげたもの。平等院鳳凰堂の例に見られるように阿弥陀堂と池泉を中心とする庭園を有し、王朝文化の優雅さが反映されています。円成寺庭園もその印象は、山里にありながらまさに、雅。森閑とした環境が現世の理想郷を際立たせています。 -
円成寺の創建は諸説あり、奈良時代とも平安時代ともいわれています。江戸時代には山内23寺を持つ一大霊場にまで発展しましたが、幕末の動乱、維新期の神仏分離以降は衰退し、庭園も荒廃。明治期には伽藍と池泉の間に県道が通る惨状でした。
ようやく伽藍の修理がはじまったのが、明治15 年(1882)。膨大な手間と時間を要する復興作業は、代々の和尚に引き継がれます。昭和36年(1961)には、悲願だった県道の移設整備が実現。昭和51年(1976)には、百年以上もの試練の時期を乗り越えて、すべての整備が完了、平安の庭は、かつての景観を再生させたのです。 -
円成寺に伝わる江戸期の絵図『和州忍辱山円成寺伽藍封疆之図(わしゅうにんにくせんえんじょうじがらんほうきょうのず)』では、池泉中央の中島には南北それぞれの岸に、現在では失われてしまった朱塗りの橋が架けられています。池泉手前の此岸から、中島を経由して彼岸へ。そして、楼門、阿弥陀堂へと続くその参道をいにしえ人たちは、憧れの浄土を歩く心持ちで歩みを進めたのでしょうか。池泉のほとりではぜひ、在りし日の人々の気持ちに想いを馳せてみてください。