円成寺
- 隠れ里に現われる、浄土式庭園
- 如来が来迎する、美しき祈りの空間
- 若き運慶の才気がほとばしる、国宝・大日如来坐像
穏やかで優しい表情、丸みを帯びたなで肩や柔らかな全体の骨格。雅やかな藤原文化を象徴するかのような優美な阿弥陀如来坐像は、平安時代の有名な仏師・定朝(じょうちょう)の造像の特徴を備えた様式の仏像です。静かに目を伏せて坐禅を組み、瞑想するときの定印を結んで、美しい九重の蓮華台座に安座しています。
寺院の堂内に須弥壇を設け、その上に置いた厨子に仏像を安置するのは中世から多く見られるようになったスタイルです。円成寺の阿弥陀如来坐像が安置された厨子も室町時代の再建時に造られたものであり、三方解放高御座型大型厨子(さんぽうかいほうたかみくらがたおおがたずし)と呼ばれています。四隅を飾るわらび手や蟇股(かえるまた)の意匠など細部にもご注目ください。
本堂・阿弥陀堂の主要部分である内陣では、母屋の四本柱に描かれた華麗な菩薩群が拝観者の目を引きます。舞い踊り、楽器を奏するさまざまな姿は、阿弥陀如来が側近の二十五菩薩を従えて現われる、来迎図を念頭に描かれたもの。須弥壇(しゅみだん)上の厨子に座す阿弥陀如来、それを覆う菩薩の舞う母屋。空間全体で浄土を表現しています。
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文正元年(1466)、応仁の乱の兵火は円成寺にも襲いかかり、本堂・阿弥陀堂や楼門をはじめ多くの堂宇(どうう)、仏像が焼亡しました。知恩院院主・栄弘を中心として復興が直ちに開始され、栄弘が没する文明19年(1487)には14もの堂宇の復興がなされていたと伝わります。さらに、本堂・阿弥陀堂の復興に際しては、天永3年(1112)に創建された旧本堂の規模・様式になんら変更を加えることなく、焼亡前とほぼ同じ姿で再建されていたことが昭和33年(1958)に開始された復元解体修理で判明しています。
技術や知識の忘却を招くことのない迅速な復興と伝統を忠実に受け継いだ室町時代の人々の努力が、貴重な平安時代の祈りの空間をいまに伝えています。 -
庭園だけではなく、阿弥陀如来坐像の座す堂宇そのものの荘厳も憧れの浄土の表現であったことが円成寺の本堂・阿弥陀堂ではよくわかります。内陣母屋の四本柱に描かれた極彩色の菩薩は楽器を奏で、舞を踊り、まるで夢幻の美しさ。内陣中央の阿弥陀如来が少し目線を下げているのは、極楽浄土の中心にある高い場所から私たちのいる遠い下界を見つめているのでしょうか。空間全体で阿弥陀如来が眷族(けんぞく)である菩薩たちとともに下界へ下ろうとしている来迎のようすが表現されています。
また、須弥壇の四方では鎌倉期彫刻の息吹を感じさせる重要文化財の四天王立像が勇ましく阿弥陀如来を守護しています。
内陣は、周囲をぐるりとめぐりながら拝観できるようになっています。華やかで厳かな祈りの空間を古来の多くの修法にならい、極楽浄土へとつながるという右回り(時計回り)で360度じっくりとご体感ください。