6世紀前半頃のある日、欽明天皇は群臣に尋ねました。「西隣りの国から献上された仏像の顔のなんと美しいことか。いまだかつて見たことがない。拝むべきだろうか」。
拝むことを勧めたのは蘇我稲目、反対を唱えたのは物部尾輿です。天皇が選んだのは、稲目の意見でした。
“崇仏論争”と呼ばれているこの論争は、信仰の対象だけではなく、政権内の主導権をめぐる争いでもありました。当時の東アジアは緊張した状態にあり、外交責任者の蘇我氏は、最先端の文化である仏教を取り入れることで国の内外にヤマト政権の力を示そうとした、と考えられています。
用明天皇2年(587)、蘇我氏と物部氏との対立は武力対決に発展。蘇我氏が勝利を収め、仏教受容の道が開かれました。
翌年・崇峻天皇元年(588)には、蘇我氏の本拠地・飛鳥で、稲目の息子・蘇我馬子の発願により「法興寺」、地名から「飛鳥寺」とも称される寺院の建立が始まります。これこそが、後の「元興寺」です。この時期から花開く「飛鳥文化」は仏教中心の文化。王族や豪族たちは盛んに氏寺を建立しますが、そのはじまりが元興寺の前身である法興寺となりました。
法興寺は、日本ではじめて本格伽藍を持った仏教寺院といわれています。一つの塔を中心に、北側に中金堂、東側と西側には小型の金堂があり、一塔三金堂の配置であったことが発掘調査でわかりました。
『日本書紀』には、百済から、僧と仏舎利、寺工(てらたくみ)、露盤博士(ろばんのはかせ)、瓦博士(かわらのはかせ)、画工(えかき)などが渡来したという記事があり、現在の元興寺で「極楽堂」「禅室」の屋根に用いられている“飛鳥時代の瓦”は、この瓦博士によるものと考えられています。
新しい文化の象徴として、飛鳥の地に突如出現したハイテクノロジーの結集。飛鳥時代を彩るさまざまな文化が、元興寺の前身である法興寺から繰り広げられてゆきました。
庶民は、まだまだ竪穴住居に暮らしていた時代。礎石の上に巨大な柱が建てられ、瓦を葺いた重厚な屋根を載せた本格伽藍の出現は、人々をおおいに驚かせたに違いありません。
いまも現役!
1400年前の飛鳥時代の
建築部材が見られる
1400年前の飛鳥時代の
建築部材が見られる
境内散策でまず、注目したいのは屋根瓦。極楽堂西側と禅室の南側東寄りで葺かれている数千枚の瓦は、創建時の飛鳥時代と平城遷都後の移建で作られた奈良時代のもの。これらの時代の瓦は、当時の「窯」の焼成温度が低かったため、赤みや黒みを帯びているという見方があります。丸瓦と丸瓦の連結部分がコップを重ねたように段を成す「行基葺き」で葺かれているのも特徴です。
極楽堂内部の見どころは、内陣部分。方形の柱で区切られた一画は奈良時代末の学僧であり、本尊・智光曼荼羅の生みの親である智光が住んでいたという一房がそのまま遺されたものと伝えられています。
1300年の時を刻む遺品はそれだけではありません。通常非公開の禅室屋根裏には、飛鳥や奈良、鎌倉時代などの各時代の部材が使われています。とくに東側の部屋に用いられている横木の頭貫が現役で使用されている部材では最も古く、飛鳥時代のものと考えられています。
平城遷都が行われた和銅3年(710)から8年後の養老2年(718)、元興寺の前身・法興寺(飛鳥寺)は平城京に移され、寺名も「仏法元興之場 聖教最初之地(日本で最初に仏教の教えが起こった地という意味)」に由来する「元興寺」に改められました。
同時に蘇我氏の氏寺から、国家的に営まれる官寺となり、東大寺・興福寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺とともに南都七大寺に数えられ、大きな影響力を持つようになりました。
当時の寺域については諸説ありますが、南北に約500m・東西に約250mともいわれ、現在の「ならまち」とほぼ重なります。
寺院に開墾する田圃の所有を認め、その面積を制限した「諸寺墾田地限」では、東大寺が4,000町歩、大安寺・薬師寺・興福寺が各1,000町歩とされたのに対し、元興寺は東大寺に次ぐ2,000町歩と定められたことからも往時の元興寺に対する位置付けがうかがわれます。
また、天平勝宝4年(752)に行われた東大寺大仏開眼法要では、孝謙天皇・聖武太上天皇、文武百官の前で、元興寺の隆尊が華厳経を講じ、元興寺僧侶による歌も献じられました。
みなもとの のりのおこりし とぶやとり
あすかのてらの うたたてまつる
かつての「法興(のりのおこりし)寺」、飛鳥(とぶとり)の「飛鳥寺(あすかのてら)」という由緒を持つ、仏教伝来の寺院・元興寺が、大仏開眼を祝し、平城京でも仏教の発展において中心的役割を果たしていこうとする志が感じられます。
他にも、法相教学を大成した学僧・護命をはじめとする名僧を多く輩出、“お盆”として現代にも受け継がれている盂蘭盆会(うらぼんえ)や釈迦の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)をはじめて行ったことなど、さまざまな功績を重ねながら、平安時代前期頃まで元興寺の繁栄は続きました。
ならまち歩きで、
元興寺のおもかげに
出会う
元興寺のおもかげに
出会う
ならまちで元興寺の境内だった“証”を探索するのも旅歩きのおすすめ。旧伽藍の礎石は道端など随所で発見することができます。とくに、奈良町物語館で公開している金堂礎石は、室町時代の土一揆で焼亡した金堂の名残。地中から発掘された礎石に歴史への感慨が深まります。
ならまちでは、地名も昔を物語ります。元興寺の僧・護命(ごみょう)が小川で群れ鳴く蛙に読経を妨げられ、まじないで止めたという話から、その川には「不鳴(なかず)川」の呼び名がつきました。しかし、いつのまにか鳴川(なるかわ)と誤称され、現在の「鳴川町」の由来となったといいます。
逸話とともに遺された地名以外にも、かつて伽藍の名がそのまま町名となり、遺されているものも多くあります。「高御門町(たかみかどちょう)」は、かつての元興寺の中大門があった場所。平城京の四条大路の通っていたところでもあります。
平安時代になると、最澄による天台宗や空海による真言宗が広がり、密教が盛んになるなど仏教に新しい動きが生まれます。平安時代の後期には、朝廷の権力も衰え、官寺を営むための荘園・寺領からの収入が困難になりました。時代の変遷の中、奈良の諸寺とともに元興寺も衰退の一路をたどります。
しかし、平安時代末期から鎌倉時代へと続く、庶民への浄土信仰の広がりが元興寺に新たな道を与えました。
奈良時代末の僧・智光は、浄土教の最も早い時期の研究家として名を馳せた人物。自らが夢で得た極楽浄土の様子を描かせ、浄土変相図「智光曼荼羅」を遺しました。
やがて、智光が住んでいた僧坊の小部屋に智光曼荼羅が本尊として祀られ、「極楽房」と呼ばれるようになると、極楽往生を願う人々の注目を集めるようになりました。その後、極楽房のあった一画全体が「極楽坊」となり、現在の国宝「極楽堂」へとつながっていきます。
智光曼荼羅の原本は、残念ながら室町時代に焼失しますが、貴重な写しの数々がいまも受け継がれています。
中世以降の元興寺では、地蔵信仰もたいへん盛んでした。信仰は大乗仏教とともに南都に広がり、寺院とまちなかに数多くのお地蔵さんが祀られたという記録が残っています。
元興寺境内には石のお地蔵さんや石塔などが約2,500以上遺されています。毎年8月、人々が灯明皿に願いを書き、献灯する「地蔵会万灯供養」は、長い間忘れられていたこれらの石塔を供養したことに始まります。
元興寺を支える中心は次第と庶民になり、浄土信仰や地蔵信仰以外にも聖徳太子信仰や弘法大師の大師信仰なども行われていました。境内にある「法輪館」では、当時の人々が願いをかけ、手を合わせた聖徳太子像や弘法大師像などを拝観することができます。
他にも元興寺には「千体仏」や「物忌札」「祭文」など多種多様な数万点におよぶ史料『元興寺庶民信仰資料』が遺されており、重要有形民俗文化財の指定を受けています。
約2,500の
石塔・お地蔵さんが
並ぶ
ふしぎな光景
石塔・お地蔵さんが
並ぶ
ふしぎな光景
境内で目を引くのが、幾列もの石塔・お地蔵さんが並ぶ「浮図田(ふとでん)」の光景。これらの石塔などはおそらく元興寺が荒廃した時期から、境内にある石舞台の上に置かれていたもので、昭和63年(1988)に、ようやく現状のかたちに整備することができました。“浮図”とは仏陀のことで、浮図田とは、仏陀を表す仏像・仏塔が稲田のように並ぶ場所を意味しています。
約2,500を数える石塔のかたちは、じつにさまざま。密教の教えに基づく「五輪塔」や経典『宝篋院陀羅尼(ほうきょういんだらに)』が収められていたことからその名が付いたという「宝篋印塔」、それらの形を浮き彫りや彫刻した板碑(いたび)などが見受けられます。
中世の元興寺は興福寺大乗院の菩提寺墓所だったため、僧侶の名前が多く刻まれていますが、「逆修(ぎゃくしゅう)」と刻まれているものは僧侶以外の人たちのもの。生前に極楽往生を願い、自ら石塔を建てたといわれています。浮図田は、さまざまな身分の人が出入りをしていた庶民信仰の寺にふさわしい光景といえるのかもしれません。
極楽堂を中心とする法灯を守りながらも、かつて栄華を誇った元興寺は次第に荒廃していきます。室町時代の土一揆では金堂を焼失、戦国時代から江戸時代の初め頃には境内に家々が建てられ、いまの「ならまち」の元になりました。
明治期を迎え、神仏分離・廃仏毀釈の嵐は、幕府という後ろ盾を無くした元興寺を容赦なく襲います。遺されていた伽藍が、学校や別の教団の説教所として使用されることもありました。
住職もいない“荒れ寺”と成り果て、昭和の時代を迎えた元興寺に、戦時中である昭和18年(1943)、宝山寺からの特任住職として一人の僧侶が入寺します。元興寺復興の道を切り拓いた、辻村泰圓(たいえん)です。
泰圓はただちに禅室の解体修理を開始するなど、境内整備に取りかかりました。しかし、大工などの職人や寺院に関わる専門家、泰圓自身も徴兵され、整備は中断。再開は、終戦後となりました。
戦後の泰圓は東奔西走し、多くの人々に会い、募金活動を繰り広げます。国の修理費捻出が遅々として進まないのを見かねて「国宝の五重小塔を売って修理費に充てる」と豪語したとの逸話も遺されています。
努力のかいもあり、昭和45年(1970)には、おおよその整備が完了しました。
整備作業の一環として行われた発掘作業では膨大な数の『元興寺庶民信仰資料』が発見され、後の元興寺文化財研究所の設立へと繋がります。
こうして元興寺は、平成10年(1998)、歴史の究明と文化財保護の成果を評価され、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つとして登録されました。
約1400年前に飛鳥の地に生まれ、人々の祈る心に支えられた“はじまりの寺”は、新たな歴史を歩み始めています。
ちょっと怖い?
“ガゴゼ”鬼伝承
“ガゴゼ”鬼伝承
元興寺は古くから、鬼と縁が深い寺院。『日本霊異記』には元興寺の童子であった道場法師の鬼退治が物語られています。
ある農夫の元に子供姿の雷神が天から落ちてきました。農夫は雷神が天に戻る手助けをし、引き換えに子を授かります。後の道場法師です。成長した子どもは、元興寺に現れた人食い鬼と闘い、逃げる鬼の跡を追いましたが、とある辻子で見失ってしまいます。この辻は「不審ヶ辻子(ふしがつじ・ふりがんずし)」と呼ばれ、いまもその名が不審ヶ辻子町として遺されています。
元興寺では、法師が鬼を退治した時の形相を“元興寺「ガゴゼ」”と呼び、個性あふれる顔は寺のシンボルとなりました。江戸時代末には、元興寺とガゴゼの結びつきが広く知られていたことが、さまざまな史料からうかがえます。
また、元興寺の境内では、あちらこちらに可愛らしい鬼の石像が姿を隠しています。思わず写真に収めたくなるユニークなポーズの像が全部で5体。ちょっと楽しい“鬼ごっこ”はいかがでしょうか。