長谷寺のある桜井市初瀬(はつせ)のあたりは、古来、「はせ」、「はつせ」、「とよはつせ」と呼ばれ、泊瀬、初瀬、豊初瀬などと記されました。
7世紀後半に編まれた『万葉集』では「こもりくの泊瀬」と歌に詠まれ、泊瀬にかかる枕詞「こもりく(隠国)」は、三方が山に囲まれた奥まった場所を指す、といわれています。
長谷寺の草創期は遥かな歴史の彼方にあり、すべてが詳らかにはできないものの、貴重な手がかりが遺されています。
その一つが、学問の神様・菅原道真が手がけたと伝わる『長谷寺縁起文』で、天武天皇の時代、僧・道明が初瀬山の西の岡に宝塔を納めたことが記されています。
もう一つの手がかりは、長谷寺が有する国宝「銅板法華説相図(どうばんほっけせっそうず)」の銘文です。解釈は諸説ありますが、朱鳥元年(686)、天皇の勅を受けた道明により銅板が鋳造され、西の岡に安置されたことが記されています。西の岡とは、現在の五重塔付近で、「本長谷寺(もとはせでら)」と呼ばれています。
平安時代、長谷寺は官寺に準じる寺として国家に認められますが、律令制の崩壊が進み、経済的な保障にあずかることはできませんでした。そこで、手を差し伸べたのが、仏教に救いと一族の繁栄を求める平安貴族たちでした。
10世紀初頭から貴族たちは盛んに参詣に出かけ、長谷寺は有数な観音霊場の一つとして確立されていきます。
万寿元年(1024)には藤原道長が、寛治3年(1089)には摂政・藤原師実が参詣。長谷寺を詣でることは「初瀬詣で」と呼ばれ、『枕草子』『源氏物語』『更級日記』『蜻蛉日記』などの王朝文学にも登場します。
全国から人々が、巡礼地として長谷寺を目指すようになったのは、12世紀頃から隆盛し始めた西国霊場巡礼がきっかけでした。さらに室町時代になり、「西国三十三所巡礼」が大衆化し、観音信仰の根本道場になると長谷寺は一層の人気を博します。
その後も巡礼者は絶えることなく、近年では奈良県中部の古刹、長谷寺・室生寺・岡寺・安倍文殊院を巡る「奈良大和四寺巡礼」が注目を集めています。
現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山として、末寺は3,000余り、檀信徒は約300万人を数えます。
長谷寺は長らく東大寺の末寺でしたが、10世紀末に興福寺の末寺となります。16世紀末には、豊臣秀吉の弟・秀長が当時高野山に避難していた紀州根来寺(ねごろじ)の僧・専誉(せんにょ)を長谷寺に迎え、新義真言宗の根本道場となりました。江戸時代には幕府の手厚い庇護を受けて繁栄、明治30年(1900)に宗派が独立し、現在に至ります。
本尊・十一面観音菩薩立像の由来について、『長谷寺縁起文』『今昔物語』は、何十年、または、何百年も不思議な出来事を起こしていた霊木から削り出された像である、と伝えています。
本尊・十一面観音菩薩立像は、これまでに7度火災で消失しましたが、そのたびに人々の願いとともに蘇りました。
方形の岩座(いわざ)大磐石と呼ばれる台座に立ち、左手に宝瓶(ほうびょう)、右手には念珠と、本来は地蔵菩薩の持物である錫杖(しゃくじょう)を持つ独特なお姿は、「長谷寺式」と呼ばれています。
全国には、平安時代から現在まで、長谷寺式観音像を祀る多くの寺院があります。寺名は、長谷寺(はせでら、ちょうこくじ)である場合も、それ以外の場合もあるようです。それら寺院では、観音像が霊木から造られたとの伝承を持つなど、長谷寺とのつながりを感じさせる例もあります。
「参籠(さんろう)」とは、祈願のために一定期間社寺にこもること。清少納言は、ある正月の長谷寺での参籠※の体験をじつに活き活きと描いています。
長谷寺で、まず清少納言の心を捉えたのは若い僧侶たちの姿でした。呉階(くれはし)と呼ばれる階段のある長廊の上を、彼らが足駄(あしだ、高歯の下駄)を履いて恐れもなく上り下りし、経を口ずさんだりしている姿がいかにもこの場所にふさわしく、「をかしけれ」と好ましく見ていることが記されています。現在の登廊は明治22年に一部再建されたもので399段の階段が続きますが、いまでも僧侶たちは下駄を履いて、登廊を上り下りしています。清少納言がみた情景とは、いまは少し違うかもしれませんが、今でも「をかしけれ」と感じる景色を長谷寺で見つけることができるでしょう。
また、「昼間、退屈しているときに、局のすぐ近くで突然、法螺貝を吹く者がいてたいへん驚いた」と、長谷寺ならではの出来事が描かれている場面もあります。この「法螺貝を吹く」とは、僧侶が時を告げるために吹く、法螺貝のこと。後に江戸時代の国学者・本居宣長は、吉野・飛鳥の旅で長谷寺を参詣し、同じくこの音を聞き、
「むかし清少納言が詣でし時も、俄にこの貝を吹き出つるに、驚きたるよし、書き置ける」
と、『枕草子』を思い出し、清少納言の面影を見るようだと記しました。
法螺貝の音は千年以上を経た現在も、正午と夜8時の2回、初瀬山に鳴り響き、人々の想いが重なりつづけています。
※諸説あります。
源氏物語「玉鬘(たまかずら)」の巻は、夕顔の姫君・玉鬘の半生を中心に描かれています。かつて源氏が愛し、はかなく散った夕顔の姫君・玉鬘。その美貌ゆえに迫られる求婚から逃げるため、筑紫から頼る者のない京へ向かいます。そんな玉鬘が心細く過ごしていたとき、従者の一人が「初瀬の観音の霊験は唐土(中国)でさえ評判になっているから」と初瀬詣でをすすめます。
乳母に育てられ母の死を知らぬ玉鬘は、母との再会を祈り、約72kmの道程をあえて徒歩で、足の痛みに耐えながら歩きます。歩き始めて4日目、椿市(つばいち)の宿で玉鬘一行は、その昔、夕顔の侍女だった右近と出会います。右近は、光源氏に仕えながら玉鬘との再会を念じ、初瀬詣でに通い続けていたのです。
紫式部が再会の舞台とした椿市は、お参りに用いる灯明などを買い整えて準備をする場所。観音様のご加護が働き、憧れの長谷寺を目前に期待がふくらむ椿市は、物語が大きく動き出すのにふさわしい、紫式部の演出が冴える物語の舞台でした。
椿市で劇的な再会を果たした玉鬘と右近は、その後の参籠の途中、初瀬川の前で歌を詠み交わします。そのときの右近は「二もとの杉のたちどを尋ねずはふる川のべに君を見ましや」と詠み、玉鬘と出会えた喜びを表現しています。この歌の中にある、「二もとの杉(ふたもとのすぎ)」とは、いまも長谷寺の境内にある二本の杉のこと。この杉は根元がつながり並び立っています。大切な人との縁の結びつきを守り、叶える霊木としてまつられています。見れば見るほど歴史の深さを感じ、かつての偉人たちも訪れた二本の杉。今日でも、手を合わせる人の姿は絶えることがありません。
“病を癒したい。”“不幸を解消したい。”“将来を知りたい。”当時の人々は問題の解決を、神仏から「夢」の中で教わるため盛んに社寺へと旅をし、祈願をしました。お寺の中では、観音菩薩を本尊とする、京都の清水寺、滋賀の石山寺、奈良の長谷寺が、夢の託宣で名高かったといわれています。
『更級日記』の初瀬詣でに関する記述のひとつは、孝標女の将来を案じた母が、娘の代わりに僧侶を長谷寺へ行かせ、娘の将来に関する夢を見るまで3日間参籠させた、というもの。このとき僧侶は帰京後に2つの夢を報告しています。
ちなみに、参籠期間は『更級日記』のエピソードでは3日ですが、他の文学作品や史料には7日、21日、100日も多く見られます。
そのほかにも、孝標女は39歳、47歳と初瀬詣でをしたという記述があります。最初の長谷参りのときには夢の託宣をあずかりましたが、2度目に長谷寺を詣でたときには、そのお告げを実行しなかったことを後悔している描写もあります。長谷寺は更級日記の中で何度となく登場しました。
長谷寺は、万葉集にも詠まれ、枕草子・源氏物語、更級日記と登場し、平安時代の女流作家に親しまれていました。さらに庶民にも「初瀬詣で」は広がっていき、多くの人々の信仰は、いまもなお続いています。